日本の感覚技術 1宮大工
大工は建築の総合プロデューサーだった

大工の語源は大匠(「だいく」あるいは「おおきたくみ」)で、中国の建設担当長官の官名。日本でも7世紀の半ばに、官名としての大匠が登場しています。「さしがね」を考案したとされる聖徳太子が組織したのが、大工のはじまりという伝承もあり、聖徳太子は古来建築技術者たちの信仰の対象となってきました。奈良時代以降は、国家の建設事業の技術長官が大工(おおきたくみ)と呼ばれ、その下に少工(すないたくみ)が設けられました。大工と少工は各1名で、建築にかかわるすべての技術者を統率。設計を担当するとともに現場の指揮をとっていたとされています。時代がくだると、大工は個別の造営のプロジェクト・リーダーを指すようになりました。中世以降、多くの物語の主人公として知られるようになる「飛騨匠」は、江戸時代の左甚五郎とともに、超越的な技術を持った「大工」だとされてきましたが、大工というより木工職人といった方が正確かもしれません。大工の本領は、そのような技術を指導・統括することにこそあったのですから。

西澤 政男

 日本伝統建築技術保存会 会長

透明人間になる

施主は神さま仏さま

宮大工とほかの家大工や数寄屋大工とのいちばんの違いは、神さま仏さまの建物をつくるということ。住職さんや神職さんとはいろいろ意見の違いはあっても、神さま仏さまには逆らいません。つまるところ、自分の仕事を神さまが見ているということです。部分によって仕上げの精度は違っていて、どこもかしこも蝿がとまってすべるほどつるつるに鉋をかける必要はありませんが、見えないところでもきちんと仕事をする。現実的な問題として、荷重の伝達にしても、鉋をちゃんとかけてぴったり合わせておかないと支えきれません。すべて1ミリ単位で合わせていきます。
人間の視点にたとえるなら、現世の人の満足を得るだけにとどまるか、200年後の人々の評価まで気にするかとも言い換えられるでしょう。自分がつくった建物はいつまでも建っていてほしい。木造だから必然的に50年、100年経過すると朽ちてきます。そうなったとき、これはもうだめだから修理して延命するだけの価値もないので建て替えようと思われてしまうのは、その時代の人たちの心をとらえられなかったということです。200年後の人たちに、新築する以上のお金をかけてでも残したいという気持ちを起こさせる力を持った建築をつくることが我々の目標です。それは、建物にいかに人々に修理延命してもらえる生命力を注ぎ込むかにかかっています。重要文化財や国宝は、500年、800年と歳月を経て、何度も修理されています。法隆寺などは小修理を入れると20回以上になるでしょう。建物は無言で建っているだけですが、人々に修理しようという気持ちを起こさせる力がある。そういう力を建物に込めるのが大工の理想でしょう。
いまの世の中で、大工でそこまでできる人はなかなかいません。なぜなら、大工が設計を放棄しているからです。他人が設計したものをそのまま建てるだけでは、生命力を吹き込むなどというおこがましいことは言えません。それは設計した人の作品であって、大工の作品ではないからです。宮大工の真髄は設計にあると思います。宮大工は、いまで言う建築家でもあると思いますが、作品を通じて後世の人たちの心の動きにまで挑戦するところが違うと思います。現代の建築家は発注者の方を向いている。あるいは現代社会の評価を気に掛けて自分を見せたがる人が多い。しかし、自分を見せるというのは、見る人にとっては大体は嫌味に感じられます。我々がつくろうとしているのは、嫌味がなくて一見した後で、そこに何かあったか、見る人の心に引っ掛りがなく見えるような建物です。自己主張を消し、淡白で、透明人間のように記憶に残らないような建物こそ、生命力があると思います。これは何だろう、何でこんなことしているのか、と気になるようなものは、未熟な証拠です。透明人間ではあっても、幼稚でない成熟した人の心を惹きつけるデザインの建築は修理延命してもらえる可能性が高いと思います。おそらく国宝重文の建物というのは、そのようにして現在まで残ってきたのでしょう。生命力のエッセンスが濃い。そういう建物を修復することによって学んだ生命力を、新しい建物をつくるときに注入するように努力しています。

日本建築の
ピークだった
室町時代

中世の鎌倉末、室町時代あたりが日本の建築技術、大工技術がいちばん発達した時代です。中心はもちろん近畿です。この時代は、人間の錯覚まで矯正しようとしている。「隅伸び」とか「軒反り」などという手法です。直線的に軒が深い建物を建てると、その正面に立った人の眼には左右の端が下がって見える。これを柱の高さや軒の反り具合によって軽快に見えるように微妙に調節するのですが、煩雑な計算と膨大な手間がかかる。それをまったく厭わずにやっている。部品の寸法や角度も、ひとつひとつ微妙に違ってくる。中世のある建物では、それぞれの部材に正規の計算で出した墨と微調整した墨の2本が残っていることがありました。600年前の大工がそういうことをやっている。木組みでもさまざまなところで傾きを矯正しています。
それが桃山から江戸時代になると、現在プレカットが流行しているのと同じように、規格化に主眼をおくようになる。部材は全部水平垂直にして、同じかたちで済ませるようになります。繊細な美意識による矯正など、江戸時代の大工は考えなくなりました。ただし、その間にも細部の仕事は発達し、江戸も天保(19世紀中期)あたりになると、継ぎ目等の仕上がりをよくするために凝った仕事をしている。しかし細部に気をつかいすぎて、全体のプロポーションが悪い。技術的に繊細でレベルは高いのですが、全体の間が抜けている。

槍鉋(やりがんな)など、伝統的な大工道具。

槍鉋(やりがんな)など、伝統的な大工道具。これらの道具のつくり手も、伝統工法の存続には不可欠である。

 

現場での西澤氏

現場での西澤氏。まずは自らの「眼」によって、表面の微妙な傾きや仕上げの状況を確認する。

そういうことは技術の前提部分で、生命力を注ぎ込んだり、全体のプロポーションを追求するということとはレベルが違うテーマです。細部か全体かの二者択一ではなく、細部の精巧さを保持しつつ全体のプロポーションを整える能力を有することがプロの職人の条件で、それが技術の発達といえるのです。
寺社の造営では、リーダーになって指令を発する人がいて、それぞれの部門で目的に応じて仕事をさせるような人が何人もいて、さらにその下に職人たちがいるというシステムが必要でした。いちばん絵になるのが、下の人であって、甲良宗広(こうらむねひろ)という江戸幕府の大棟梁と左甚五郎を並べたときに、講談や浪曲の材料になるのは左甚五郎の方。ただし甚五郎の仕事はあくまで部分の仕事であって、それだけでは全体にはなりません。

プロポーションと
曲線

建築が、将来いかに評価されるかということの大きなポイントは、プロポーションです。それ以前にきちんとつくるのは当たり前。プロポーションがよければ、細部の仕事もちゃんとしている。プロポーションは設計にかかわる部分です。いまは分業化してしまいましたが、本来技術と技能は表裏一体であるはずです。
寺社建築の場合、大工的視点がない人が書いた図面は絵に描いた餅と同然で食べられません。また自分の想いを建築に出そうとすると嫌味となって後世に修理して延命してもらえなくなり寿命が短くなる。現代人があまりにも創造が第一で、模倣はだめということを言い過ぎたがために、伝統を捨てることになってしまった。日本は、最近でこそ町並保存と言っているが、そういうことをしてきた。
プロポーションでは、やはり桧皮葺の蓑甲(みのこう=妻側部分の野地がゆるく曲線を描いて、破風のほうへ下っている状態)の丸いところなどは、女性の腰のラインだといわれている。女性にたとえるのは語弊があるかもしれませんが、三重塔でも軒の出るところはきっちり出て、腰のくびれるところは絞って、というふうに建築でも八頭身美人をつくれと言われました。それほど微妙な線なのです。そういう曲線は普通の円弧ではありません。放物線や懸垂曲線の部分を使うともいわれますが、やはり微妙に違う。宋の建築書『營造法式』という書物に「卷殺」という方法が載っているそうですが、それがいちばん簡単だそうです。
ただ法則というものは、応用しなくてはいけません。法則通りでは幼稚で単調なものになる。そこは経験にもよりますが、遠目にみるのがいちばんでしょう。次善の策として図面にする。その図面を書くときには、規矩術が不可欠です。大工をやらない人には、規矩術にのっとった図面は難しいですね。規矩術の規はぶんまわし(コンパス)、矩は矩形(直角)を意味し、部材加工の技術としてだけではなく、部材寸法の組み合わせや比率、間取りや高さを決定するための方法です。

技術の伝承──
本物を求めて

尺貫法を法律で禁止するなどということも、奇妙です。日本の生活習慣になじんだ尺度で、一尺というのは扱いやすい単位です。ミリの目盛りのあるさしがねは細かすぎて使えない。ほぼ3ミリ、一分だとちょうどいい。もちろん3ミリ以内の誤差があっていいという話ではありません。髪の毛一本の誤差もないようにしなくてはいけない。現在も尺貫法を禁止する法律はなくなったわけではなく、取り締まりをしなくなっただけです。世界中がメートル法で統一されるならまだしも、ヤードポンドを使っている国もたくさんあります。公にメートル法を採用しても、一般的には尺貫法を使っていてもいい。禁止するのは、文化的自虐者で、後進国がすることだと思います。明治維新以来、西洋文明をとりいれるために自国の文化を自己否定し、フェノロサのような外国人にその奇妙さを指摘され、一部の人だけが反省した。それでやめればいいのに、そのまま現代まできてしまった。そこに技術と技能の分離の根本原因があると思います。

三重塔の心柱

三重塔の心柱。日本の伝統的な塔の耐震性の高さは、この心柱を中心とする独得の構造によっている。

 

西澤氏が手がけた稲荷社

西澤氏が手がけた稲荷社。小さな社(やしろ)ではあるが、美しく堂々とした佇まいを見せている。

技術の伝承は、我々の最大の目標と言ってもいいかもしれません。本物をつくる技術を伝えることです。我々がつくるものはまだ本物とは言えないかもしれませんが、近づけようと努力してはいます。本物かどうかは将来の人が判定します。世の中には、偽物でもいいという安易な妥協が蔓延しすぎている。見分ける目があって、本物でないもので辛抱するというのならまだわかりますが、本物を見る目がなくなってしまうと、何が本物かさえわからなくなる。お役所にも木造建築を担当する部署がありますが、そこの人たちはマンションに住んでいる。彼らはまだ、郷里に帰ったときなどに、田舎の木造の家を思い出すことができる。でも次の世代は、生まれたときからマンションに住んで、鉄筋の学校に通う。木造の家で暮らすということがどんなことかわからくなってしまう。
大工道具は刃物産地でつくられます。関西では兵庫県の三木、関東では新潟の三条。東京にもありましたが、次々に廃業している。左官のコテも、鍛造して打刃物と同じようにつくるのですが、売れなくなってつくり手が減っている。伝統工法をやりたくても、道具がなくなってできなくなる可能性もあります。
私のところでは、大工修行は早い人は2、3年で墨付けできるようになる。もう少し遅い人で10年、15年。本人の気持ち次第で、興味があるかないか、好きか嫌いかが重要です。器用、不器用も多少は関係ありますが、克服できます。不器用を好きが上回る。好きがいちばんです。次に、建物を通じた昔の人との心の疎通が、快感として味わえるようになる。こうなるとしめたもので、やめろと言ってもやめなくなる。ただし、なかなかそこまでは辿り着けません。
日本建築で私が美しいと思うのは平等院鳳凰堂です。翼廊の二階の床に立ったら梁で頭を打つ程しか高さがない。けれど足が長く全体のプロポーションはすばらしい。いまだにあれを越えるような日本建築のデザインはないでしょう。そういうすばらしいものを踏襲していけるような世の中であって欲しいと思います。