この世界で起こることすべては、いずれ科学で説明がつき、技術で再現することができる、という考え方があります。
もしそれが本当だとしても、実現できるのは遠い将来のこと。
おそらく科学や技術が進歩するほど、世界の謎は深まるばかりという方が、ありそうな未来です。
すでに科学技術によって解決済みとされているテーマにしても、よくよく見直してみれば、落としものや忘れものだらけ。
しかもそれらは、いちばん大切で、しかも日々の生活のすぐそばにあったりするようです。
たとえば、勘や気配や予感をはじめ、合理的に説明されたように思えても、どこか腑に落ちないものは、決して少なくありません。
思えば現代文明はずいぶんたくさんの忘れものをしてきてしまいました。
しばしの間、立ち止まって、あれこれ思い出してみるときが来ているのかもしれません。
来るべき科学や技術の種は、そんな忘れものの中で、見つけられるのを、いまや遅しと待っているのです。
堀場製作所
いま「人工知能」というたったの四文字が、人々の想像をかきたてています。ネーミングの勝利です。ただし、いささか想像が膨らみすぎて言葉が一人歩きしているケースも少なくないようです。人工知能の「知能」はあくまでもアナロジーで、AIの仕組みや実体は、とても知能といえるものではありません。有り体にいえば、設定された課題に即してデータを区別するプログラムのこと。コンピュータの用語では、アナロジーを多用していることに注意が必要です。例えば装置にデータを保持することを人間になぞらえて「記憶」と呼びますが、そうしたアナロジーを使わずに言えば「記録」です。あるいは「ディープラーニング(深層学習)」といえば、さまざまな想像が働くかもしれません。これもアナロジーを使わずにいえば、材料であるデータを多層からなる処理のフィルターにかけてパターンを抽出する仕組みです。例えば囲碁で勝つとか画像から病巣を判別するといった特定の課題の解決では人間をしのぐような威力を発揮しますが、要するにデータを処理する機械仕掛けの絡繰りです。「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉も、AIが人間の知能を超えるなどと言われると、何か凄いことを想像したくなります。しかしこれも一種のキャッチコピーのようなものである点を忘れないようにしましょう。実際には人工知能といっても、そもそも人間の「知能」が何かがわかっていません。人工的につくろうにもつくるべきものがわからない状態です。ですからコンピュータと人間の知能を同列に比較して、超えた、超えないということにはあまり意味がないわけです。
ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で書いているように、AIと言う代わりに「アルゴリズム」と言った方がよいかもしれません。アルゴリズムとは課題の解決手順のことです。例えば料理のレシピはその好例。こういう材料を用意してこういう順序で調理すればハッシュドビーフができる、というように手順を定式化したものです。コンピュータはそうしたアルゴリズム、定式化された手順に従って機械的に処理を行うのを得意とします。この仕組みは非常に強力です。身近なところでは、私たちが日頃使っている検索サービスや地図アプリなどもアルゴリズムの塊です。また、例えばインターネットには人々が日々検索したり、買い物したり、チャットしたりする多様な行動のデータがある。そうしたデータはあまりにも厖大で人間が見渡すことは不可能です。コンピュータを使えば、大量のデータを比較してそこからパターンを抽出する手順を定式化できる。実際そうしたアルゴリズムによって地球規模でインターネット上のデータを集めることもできます。そうしたアルゴリズムの働きを見て、我々人間の身の丈や能力を超えているという印象を抱いても無理はありません。
チェスや将棋や囲碁で、コンピュータが人間のプロに勝つ。これもアルゴリズムの威力を感じさせる例ですね。でもそれは科学の実験と同じで、あくまでも課題と境界条件を設定して、その中でどこまでできるかという話なのです。課題を制限し、それを解く適切な材料とアルゴリズムが与えられると、コンピュータはそうした処理を倦むことなく実行し、そのフレームの中で最適化もできる。
将棋を指す場合、基本的には一対一で対局しますね。過去の棋譜を学習したAIは、いってみれば複数の棋士たちの数百年の知がまとまった存在として、複数の人間の経験や叡智みたいなものをモデル化している。現在ではゲームクリエイターもこの手法を使っています。世界中の数万人規模のプレイヤーがゲーム中でとる行動のデータを集めてコンピュータで分析し、人々がより楽しめる方向に調整したり動かしたりしているわけです。AIが人間の行動を抽象化しモデル化しているということでは、やや大袈裟に言えば、AIが新しい人間の見え方を提示してくれる可能性はあります。
私の仕事の一つはゲームをつくることです。多くのゲームでは、プレイヤーがなるべく長く楽しめる状態を目指します。他方、人間は贅沢な生き物で、すぐに飽きる。そういう人間を上げたり下げたり、怖がらせたり安心させたりして飽きないようにさせるのは一種の対人サービスです。
遊ぶ人を楽しませ続けるために、現在の日本のゲームで多くとられているのは、次々に新しいアイテムを投入していくやり方です。カードゲームなら新しいカードをどんどん増やす。そうして飽きるのを先延ばしにするというものが非常に多い。プレイヤーは、これ以上そのゲームの世界を探索しても新しい発見がないと思ったときに飽きるし、逆にまだ見てないものがあると思えば探しに行きたくなる。そうした好奇心にどうやって応えるかがクリエイターの腕の見せ所です。
ゲームAIの活用も一つの手です。遊ぶ人たちの行動から、その心理や意識状態を推測して、退屈していそうなら驚きやショックを与える。ゲームが難しすぎても遊ぶ気がなくなるし、簡単すぎてもやる気が削がれるので、その加減が難しいところではあります。現在ではゲームに登場するモンスターやキャラクターを担当するAIも高度化しています。昔のゲームAIは実に単純でした。例えば動きのパターンが少なくて、すぐプレイヤーに見破られてしまう。いまでは状況の細かな変化に応じて複雑な行動を選びわけたり、あたかもなにかを企んでいるかのような動きをしたりして、アイデア次第ではよき遊び相手として飽きない状態をAIでつくれるようになってきました。
ゲームのAIにはもう一つ別の可能性もあります。なにしろゲームでは、プレイヤーの行動を全部記録できる。ある人が一年間そのゲームで遊んだとしたら、その間のゲーム内での行動を全部記録できます。そうすると、そうしたデータを分析するゲームAIが、ユーザー本人も自覚していないような習慣や癖を把握している状態が生まれる。これも一種のアナロジーですが、そのゲームの世界ではAIが本人よりもその人のことをよく知っている状態になるわけです。こうした仕組みはゲームからそれ以外の各種サービスに広げることもできます。すでにショッピングサイトではこれに近いことをやっていますね。ただ、いまのレコメンドAIはまださほど優秀ではない。その人がそれまで買ったものをもとにして次のお薦めを出そうとするから、一定範囲内に留まりがちです。かといってランダムに選べばいいというものでもない。というのも、人はまだ見ていないものに出会いたい一方で、あまりにも知らないものだと興味を持ちにくいからです。片足は知っているものに、もう片足は知らないものにかけておく必要があるのですが、そこはまだうまくできていないようです。私もよく自著を薦められてがっかりします。
少し角度を変えて、道具と人間の関係という観点から考えてみましょう。ノートや本という道具は、人間に合わせて使いやすいようにチューニングされていますが、コンピュータはいまだにそうなってない。人間が道具に合わせている。簡単なことをやるためにも、そのアプリをつくった誰かが決めた(しばしば煩瑣な)ルールや手順に従う必要がある。これは結構ストレスフルです。
また、ゲームクリエイターやデザイナーを志望する学生に課題を出すと必ず出てくるのが、「先生、このアプリではできません!」という反応。道具に制限されているという意識が希薄です。その道具でできなければ、道具からつくろうとか手でやろうという発想が出づらい。創造性が重要視される創作のような場でも、道具に制限された状態に無自覚なまま浸っていると、思考もそうなってしまう。
あるいはスピーカーAIに話しかけるとき、判別されやすいように人間の側が言葉を選ぶことがありますね。道具をうまく使うために、道具の都合に人間が合わせているわけです。仮にこれが習慣になれば、善し悪しは別としていつの間にか人間の言葉づかいが変わるといったことも起こりえます。私たちのものの見方や評価の基準は、ときとして環境や使っている道具によって影響を受ける。AIに象徴されるアルゴリズム、あるいはそれを実行するコンピュータという道具とうまく距離をとるために、あるいはそれを人間の身の丈に合った道具として活用するためには、幻惑されることなくAIやコンピュータを理解する必要があります。
ではどう考えたらよいか。例えばライプニッツの「結合術」という発想に一つの手がかりがあります。人間は、概念や論理を組み合わせてものを考えたり作り出したりする。ただし、ありとあらゆる組み合わせを考慮しているわけではない。では、概念を総当たりで組み合わせる機械をつくったらどうか。そういうアイデアです。これは現在ならAIにできることですね。人間の発想では生じにくい組み合せをどんどん生み出して実験してみる、遊んでみる。それを人間に投げかけることで、我々がまだ見たこともないものに遭遇して、新しい考えが生まれるということはありうるでしょう。様々な認知バイアスや狭い意味での合理性にとらわれて、役に立つことばかりやりたがる人間にはできない遊びをAIがやってみせてくれるということもあるかもしれません。そんなライプニッツ的な結合術で、人間の精神を刺激するという可能性はあるはずです。
近年、学習データなしにパターンをつくるAIの研究も進んでいます。従来、データをもとに教師ありでやっていたAIの機械学習を、データなしでも実行する試みです。ここで重要なのはAIに何を問いかけるか、どんな課題を与えるかということです。問いがつまらなければいい答えも出ようがない。AIの限界は自分で問題をつくれないことです。それこそは人間が創造性を発揮する場所でしょう。例えばゲーム業界ではユーザーの動向を把握してサービスの内容を決めるために、KPI(Key Performance Indicator=業績評価のための重要指標)と呼ばれる指標を用います。これを見ておけばよいと言われるおきまりの数値があります。単位期間あたりにログインしたユーザー数、ゲームを継続しているユーザーの割合、お金を使ったユーザーの割合などです。たしかにそれで見えることはあるし役に立ちます。ただ、一度指標を決めるとそれしか見なくなり、ゲームのサービスではなく、指標を最適化しようという妙なことにもなります。データの山やAIを活かすも殺すも適切な問い次第です。
AIは、新しい問いや考え方は提出できませんが、パターンを見つける力は優れている。人間には見切れない量のデータ処理や、うんざりしてすぐに飽きてしまうような機械作業はAIに任せればいい。エージェントというか探偵の助手としてAIを使えばいいですね。なにを探すか、見つかったものをどう価値づけるかは、あくまでも探偵である人間なのです。