拍子と節と
リズムとメロディ
よく、拍子とはリズムで、節とはメロディだと言われますが、まったく違うものです。仮にメロディを定義するなら音程の上下移動ということになりますが、能の謡(うたい)にはこのような上下移動はなくて節のあるものが少なくありません。たとえば『高砂』の「高砂や、この浦舟に帆を上げて……」は、音程は一定で、節によって変化します。
メロディはどこかに収束したがる傾向があります。つまり、あるまとまりに向っていく。リズムも同様で、はじまったときから最後の収束に向って流れていきます。たとえば指揮者の最初の一振には、次がイメージされている。少なくとも一小節はその一振りによって規定される。まだ存在していない時間が、あらかじめ分割されているのです。能や古来の日本の音楽でもっとも大事なのは、音が出る前の無音の呼吸の共有です。能の鼓には、音をめぐる三つの要素があります。鼓の「音」と「掛け声」と「コミ」です。前者二つは聴こえる音ですが、コミは無音の音です。腹の深いところでぐっと息をつめて間をとる。このコミのとり方で、強弱、速度、高低、間合い、すべてが決まります。能では最初のコミが次の音を引き出しますが、引き出された後がどうなるかは、あらかじめはわからない。予定された未来ではなく、つねに「いま」から始まります。合奏をしていても、誰も(西洋音楽的な意味では)合わせようという気がないので、あるコミを次の人が受けても、その人はコミを変えることができるのです。舞っている人も足をつめることによって、自分がとりたいコミを相手に示す。示された側は、「なるほど」という場合もあるし、「とんでもない」ということもあり、まったく違うコミを示すこともある。だから能の舞台では、つねに闘いが繰り広げられているともいえます。しかもリーダーはおらず、指揮棒もカウントもありません。あらかじめ決められた次、あるいは指揮者やリーダーの中にある次に移っていくのではなく、みながおのおの次を創造し合いながら進んでいくのです。
拍合(ひょうしあう)と拍不合(ひょうしあわず)という言葉があります。拍合というのは西洋のリズムとは違いますが、ある合い方をする。拍不合はレチタティーヴォ(叙唱・朗唱)みたいなもので、謡も鼓もそれぞれ自由にやっていますが、最後はぴったり合う。これが不思議で、私も謡いながら「どのように合っていくんだろう」と観察したことがあります。が、そう考えた途端に合わなくなる。没入していると合い、そこから意識が少しでも離れると合わない。
能の音程は、簡単に言うと、上、中、下がある。無理に音譜にするなら、それぞれ四度の差になるのですが、これは絶対的な音階ではなく相対的な音階です。ですからいわゆる楽譜ということで示されるのではなく、いま自分がいる音があり、これが「中」の音ならば、そこから上がるから「上」、下がるから「下」の音になります。しかも、四度といっても完全な四度ではなく、そのときの気分でどれくらい上がるかが決まります。西洋音楽の調キーなどとは違います。
この相対的な音というのが現代日本人には難しい。謡を教えると、みなさん私と同じ音を出します。しかし、本当はひとりひとり体が違うので音も違うはずです。稽古では音高ではなく、私の体の緊張を再現してほしいというのですが、それができる人はまれです。今まで二人だけそのような人に会いました。しかし、二人とも学校の音楽授業では、音痴だといわれてきたそうです。同じ音を出すことが大切な西洋音楽では、そのような音の取り方をする人は音痴といわれてしまうのですね。
事物とともにある
日本の時間
日本音楽の節や拍子の特徴は、時間感覚の違いによっているのでしょう。中国から入ってきた「故」の文字は、英語では「because」に対応しますが、古代の日本人はそれを理解できず、ほとんど「and」の意味で使っています。A故にBというのは、「故」の大もとが「古」の文字であったように、Aという古いことがあるから現在のBがあるということです。これは、現在は過去によってつくられるという因果論です。『古事記』の時代の日本人はそこを納得できない。『古事記』も『日本書紀』も、中国の方法を模倣しながらも、時間の流れにそって歴史を記述していません。因果論的な記述は、おもに氏族の正当性を示すためのものです。
むろん現代の日本人は『古事記』時代の日本人ではありません。因果論的に生きているように見えます。しかし、実はそうでもありません。歴史認識の問題などに見られるように、日本人の基本にあるのは気分です。そこは西洋的・大陸的な考え方から見ると我慢できない部分でもある。もっと言うと、日本人には「歴史」という考え方が身体化されていない。ならば日本人は、未来を考えていないかというとそういうわけでもない。私が小鼓の皮を手に入れたとき、この皮はいまは鳴りません、毎日打って50年経てば鳴ります、と言われました。ちゃんと使えるようになるのは、私が100歳以上になってからのことでしょう。そういう未来は日本人は受け入れることができるのです。
『古事記』では「何故(なにゆえ)」という言葉は上巻に一回しか使われておらず、一般的には「何由(なにゆえ)」の字を使う。「何由」はそのものに由来することで、「何故」は抽象的です。鼓の皮が鳴るのを百年待てといわれれば、私たちは待つことができる。すでにそこには百年がつまっているからです。これが日本人の時間感覚です。時間は外部に独立しているのではなく、事物とともにある。「とき」と言う方がわかりやすいかもしれません。外を流れる時間は抽象であり、春夏秋冬などの「とき」は具体的な事物とともにある。
漢字の中には古代の日本人が理解できなかった概念がいくつかありました。そういう概念は音(おん)そのままで読んでいます。理解できるものには、たとえば「海(かい)」を「うみ」と読むように、訓を付しています。しかし、たとえば「信(しん)」という漢字の概念がわからなかった。だから、そのまま音にサ変動詞をつけて「信じる」としました。「感(かん)」も同じです。日本にはこの概念はありませんでした。
「悲しむ」ことと、「悲しみを感じる」ことは、まったく別です。悲しむは全身全霊であって、悲しみを感じるときにはそれを対象化しています。悲しみを対象として眺めるのではなく、悲しみそのものに入っている、悲しみと一体化している、すなわち全身全霊の悲しみなのです。全身全霊で悲しむから、それを引きずらずにそのすぐ後に笑うこともできる。この幼児のような感覚こそが「とき」の感覚にも繋がっているといえるでしょう。コミも「とき」の感覚も、自分がその場に入らないかぎりわかりません。芭蕉が、「松のことは松に習い、竹のことは竹に習え」と言った後に、習うとは「ものに入る」ことだとしています。たとえば、通常、能面を前にした場合、大きく三種類の見方があるでしょう。鑑賞的な見方、批評的な見方、鑑定的な見方です。しかし、能楽師はその三つのどれも取らず、能面自体と一体化しようとする。能面に「入る」のです。
芭蕉のいった「ものに入る」もこれです。松や竹と一体化します。コミも「込み」であり、そこに「入る」感覚です。これは頭で理解しようとしても無理です。体験するしかない。「古池や蛙飛びこむ水の音」の句では、芭蕉に蛙は見えていないはずですが、自分が古池そのものになっており、そこに飛び込んできたものが蛙であるという実感がある。西洋的な発想では、これを眺めている芭蕉の存在だとか、あるいは水の音にどんな意味があるとか、そういう風になるのですが、俳句にはそのようなものは不要です。メタファーのようでいて、メタファーではない。そこでは「私」も必要なくなっています。
世阿弥が仕組んだ
物語と感覚のシステム
能が大成された室町期は、その後日本文化と呼ばれるものの基本がつくられた時代です。能の大成者である世阿弥の功績は、文学作品を「立体化」したことです。それまでは『伊勢物語』にしろ『源氏物語』にしろ文字として読むか、あるいはあっても絵巻物くらいでした。それを世阿弥が立体化した。登場人物がそこに立って、古典文学そのままの台詞をしゃべり、動くのです。ギリシア悲劇でさえ、そういうものではなかった。世阿弥や父である観阿弥は、文学作品の立体化とともに、伝説伝承も含め民俗的なものも掘り起こしています。おそらくそういうフィールドワークがあったからこそ、文学作品の立体化が可能になったのでしょう。
能は観阿弥・世阿弥の時代から現代まで650年以上も続いています。こんなに長く続いている芸能は世界でもありません。
それは世阿弥が長く続くための二つの重要な仕掛けを能の中に仕込んだからです。ひとつが「初心」というコンセプトです。世阿弥は「初心忘るべからず」といいました。初心の「初」の字は「衣」篇に「刀」で、着物をつくるときに布地に鋏を入れること。すなわち、次のステージに進むときに、過去の自分を切り捨てよということです。われわれはどうしても過去の続きに現代があり未来があると考える。思考をリニア化してしまいがちです。しかし、リニアなものはつまらない。近年の新製品というものに新味を感じないのは、すべて想像の範囲内のものだからです。世阿弥は過去をばっさりと斬り捨てることによって、驚きを創出しようとしました。そのためにはまず自分自身を切る「初心」が必要なのです。伝統芸能である能は変わらないと思われていますが、今までに何度もドラスティックに変わっています。わかっているだけでも、まずは江戸初期に驚くほど変わっている。明治維新の時にも戦後も変わっています。世阿弥はそれほど変わりうる仕掛けを、あらかじめほどこしていたわけです。それが「初心」のシステムです。
ただし「初心」ができる人、すなわち過去と完全に決別してまったく新しいものを創出することができる人は、おそらく百年に一人、何百年に一人です。世阿弥は一方で、凡庸な人でも繋いでいけるシステムもつくりました。『風姿花伝』に「陰陽の和するところのさがひを、成就とは知るべし」とあります。昼間は人の気が上がっているので、それを鎮めるために静か目に演じなさい、夜や雨の日は気が陰になっているので、派手目に演じなさいと言います。これは、わかるけれども難しい。普通は人の気が上がっているときは、演者も上がる。観客の気が下がっているときは、演者の気も下がります。落語家もミュージシャンも駄目になる。これは人間の心理として当然です。でも、そういうときでもうまくいく方法というのを楽器の「仕組み」として作ったのです。能で使う鼓には大鼓と小鼓があります。大鼓は乾燥させて打つので晴れた日によく鳴る。小鼓は湿らせるため雨の日や夜に鳴る。そして、大鼓は奇数拍、小鼓は偶数拍を中心に打つので、晴れた日は奇数拍がよく鳴るわけです。奇数拍は、いわゆる宴会拍子なので自然にだんだん遅くなる。偶数拍は後打ちなので次第に早くなる。雨の日は早く、晴れの日はゆっくり打つようにできているのです。その他にも橋掛りの構造とか型とか、誰でも継承していくことができる仕掛けを世阿弥は仕込んだのです。
能は変わり続ける
能というとゆっくり演じられると思われていますが、このようになったのは江戸時代のはじめくらいだといわれています。それまではもっとさらさら演じられていたようです。そのような変化をよしとしたのは「初心」の考え方があったからです。日本本来のものは、テンポが遅くゆったりしているというのは誤解で、比較的最近になってつくられたイメージです。能は1970年以降でも、だいぶ遅くなっています。先輩の能楽師の話を聞くと、2時間くらいの演目も、以前は1時間半かからなかった。江戸初期はもっと早かった。現在の3倍くらいのスピードで、謡もそのスピードで謡うと現代のラップのような印象になる。そのように謡われ、そのように舞われていた。世阿弥の言葉に「せぬ隙(ひま)」というものがあるように、もちろんぐっと遅いところもあったと思われます。しない空間、しない時間がありつつ、遅さと早さのメリハリがあったのです。
能の舞台をご覧になると、シテが観世流、ワキが宝生流、狂言が和泉流という具合に複数の流派が一つの舞台に立っています。流派が違うということは台本が違うということです。解釈も違います。なのに一緒に練習しない。だから相手の出方がわからない。緊張もしますが、そこが醍醐味にもなるのです。だから能の舞台は毎回毎回、変わっていく。同じことを、伝えられたようにやるだけではない。本来の日本の芸能はそういうものだったと思うのです。
ただ、現代では能以外の伝統芸能の教育は楽譜も使われるようになってきたりして、この臨機応変に対応できなくなっているとも聞いています。これは残念なことです。また、日本の芸能には「制限」も大切です。楽器、尺八や能管などは、いいものほど音が出しにくい。これから先、能というものが消えた時代、能がどんな芸能だったのかを資料から想像しようとするとき、勘のいい人なら能管を見れば、それが理解できるはずです。能管は、雅楽で使われる龍笛に外観はそっくりですが、「のど」という構造によって、音が出にくくなっているし、楽器としては「音痴」になるようにつくられています。わざと出にくく、わざと音痴になるように作る。人間の身体でも同じです。年をとり、からだが硬くなり動かなくなったとき、はじめて若い頃に培ったものが活かされ、いいものができる。制限によって可能性が生み出されている芸能なのです。