interview 3犬の嗅覚が導くがん早期発見への道

佐藤悠二

1947年生まれ。東京都出身。株式会社セント.シュガージャパン がん探知犬育成センターCOO1989年にセントシュガー犬舎を千葉県館山市に設立し、日本初の水難救助犬の育成に成功する。その他、多くの福祉犬の育成に取り組む他、専門学校の講師を務める。2005年より、がん探知犬の育成を始める。著書に『ローズがくれた人生』がある。

水難救助犬から
水中探索犬の育成へ

昔から犬が好きで、ペットとして何頭もの犬たちと暮らしてきました。その頃から、犬が持っている感覚能力はすごいなと思っていて、次第に「犬の潜在能力を引き出して、それを強化していけば、警察犬や麻薬探知犬のように、もっと社会に役立つような犬を育てられるのでは」と考えるようになりました。25年ほど前、それまでの仕事に区切りをつけて、千葉県館山市に移り住みました。本格的に犬と向き合う生活をスタートさせたのです。
最初に取り組んだのが「水難救助犬」の育成でした。海水浴などで溺れかかっている人を助けるために、海に飛び込んでロープや浮き輪を運んでいく犬です。海岸で犬の訓練を行っていた時に、たまたま釣り客が海に落ちたところに出くわし、すぐに犬といっしょに救助に向かったこともあります。
しかし海の事故では遺体が海底に沈んだまま、浮いてこない事例が少なくありません。水死体の場合、体内で腐敗ガスが発生して、それによって遺体が海面に浮いてくるのですが、そのガスが抜けてしまうと海底に沈んだままになってしまいます。遺族の心情を思うと、「せめて遺体だけでも見つけることはできないか」と考え始め、遺体からガスが抜けているのであれば、その匂いを手がかりに探し出せるのではないかと思いました。
「海中で匂いなんか分かるわけがない」と言われましたが、犬の優れた嗅覚ならできるはずと、自分なりに確信がありました。昔から「最初からできないということはない。何かやり方はあるはずで、それを見つければいい」というのが私のポリシーです。
そこで、マリーンという飛び抜けて高い嗅覚を持つラブラドルレトリバー犬を訓練し、半年ほどで20メートルの海底に沈んだ遺体を探し出せるようになりました。世界初の水中探索犬の誕生です。

病気に固有の
匂いはあるのか

警察犬に犯人の持ち物の匂いをかがせると、その匂いをたどっていきますね。なぜ、そんなことができるのかと考えてみると、その人間に特有の匂いというものがあって、その匂いが身に付けている衣服や靴にうつってしまい、それを犬は認識できるわけです。人間には全く分からないような匂いの違いでも、犬にはちゃんと区別できる。
ある時、こんな実験をしてみました。私の呼気を入れた袋を離れた場所の岩場に隠しておき、犬に探させてみたところ、見事に見つけ出しました。次にキュウリを岩場に隠し、私はキュウリを食べ、すぐに歯磨きをして口内にキュウリの匂いが残らないようにしておきます。そして20分後、胃の中で消化が始まった頃に、私の息を嗅がせて岩場に隠しておいたキュウリを探させてみると、犬はきちんと見つけてくるのです。いろんな匂いがミックスされた状態でも、その中からキュウリの匂いを区別することができるようでした。
そこで思いついたのは、病気に固有の匂いというものはあるのだろうかということです。病気になるというのは、体内で健康な状態とは異なる現象が起きていると考えられます。もし病気の原因となっている体内の状態に固有の匂いがあるとすれば、犬の優れた嗅覚能力を用いて、その病気にかかっているかどうかを判別することができるのではないか、と考えたのです。

がん探知犬の
訓練スタート

水難救助犬や水中探索犬の育成を通じて、犬の嗅覚能力の優秀性に自信をもっていた私は、匂いで病気を見つけだすというアイデアに魅了されました。ではどんな病気を対象とすべきかと考えた時、やはり死亡率トップである「がん」だろうと思いました。
研究を進めるためには、がん固有の匂いを犬に覚えさせなければなりません。そのためにはがん患者の呼気や尿を手に入れる必要があります。100以上の病院に当たってみましたが、全て断られてしまいました。そうなるのも当然で、各病院の倫理委員会が許可を出すとも思えませんし、何より患者の個人情報に関わる問題です。それ以前に「匂いで病気が分かるなら、医者なんていらないですよ」と、まともに話を聞いてもらえないことが多かった。当時(2004年頃)は病気と匂いを関連づけるという発想がなかったのです。
ほとんどあきらめかけていたら、知人の紹介である病院の院長と出会うことができました。この人は私の考えを否定するどころか、「がんの人が診療に来ると匂いでわかることがある」と言うのです。この出会いが突破口になり、食道がん、肺がん、胃がんの患者の呼気を提供してもらうことができました。がん探知犬として訓練したのは水中探索犬として非常に優れた嗅覚を示したマリーンで、一週間ほどでがん患者の呼気を識別できるようになりました。マリーンの嗅覚は他の犬と比べても驚異的で、この犬との出会いがなければ、がん探知犬の研究は進まなかったと思います。
その頃、水難救助犬について愛犬家向けの雑誌の取材を受けた時に、「がん探知犬の訓練をしている」と話したところ、それが記事になりました。それを読
んだ新聞社の記者が取材に来て、「ノーベル賞も夢じゃない/がん探知犬」という記事で大きく取り上げられたところ、全国の病院から問い合わせが来るようになったのです。

がん探知犬による実験の様子。がん患者の呼気を犬に覚えさせた後、患者の呼気1パックと健康な人の呼気4パックを箱の中に入れて並べておく。患者の呼気と分かると、犬はその場に座るよう訓練されている。

がん探知犬の成果を
世界へ向けて発信

医療関係者と最初に本格的な共同研究を行ったのが、九州大学の園田英人先生(現伊万里有田共立病院)でした。園田先生からは「非科学的なものと思われるのではなく、本物の科学にしなければなりません」とアドバイスを受けて、実験方法も改良していきました。
部屋の中に5つの箱を置いて、これを1グループとします。5つのうち4つの箱には健康な人の呼気が入った医療用の呼気パックを、1つにはがん患者の呼気を置いておきます。そしてマリーンにどれががん患者のものか探させます。犬にとっても、この実験は集中力をともなうもので、長時間行うことは難しい。
一年間で100検体ほど実験したところ、98%の確率でがん患者の呼気をかぎ当てることができました。この成果を園田先生と論文にまとめ、2011年1月に世界的に有名な医学雑誌「GUT」で発表したところ、今度は世界中の病院から電話がかかってくることになったのです。私たちの研究がまぎれもない科学であると認められた瞬間でした。
後から知ったことですが、がん探知犬についての研究は英米でも行われていたようです。ただ、あまり良い成果が出ていなかったそうです。そこへ私たちの論文が発表され、似たような研究が世界十数カ国で行われるようになりました。マリーンの驚異的な嗅覚が世界の流れを変えたと言えるでしょう。
日本医科大学千葉北総病院の宮下正夫先生とも共同研究を行い、乳がんや子宮がんなど、婦人科系のがんについても100%近い確率でマリーンはかぎ分けることができました。この成果は国内の学会で発表されています。

がん探知犬の訓練を行っているセント.シュガージャパンの犬舎。

がんマーカーを特定し
分析装置の開発へ

がん探知犬は匂いによって、がん患者の呼気と健康な人の呼気を区別することができる。では犬がかぎ分けている匂い物質の正体は何なのでしょうか。現在はその物質を突き止める研究を進めているところです。
誤解されることもありますが、私はがん探知犬を大量に育成しようとしているのではありません。がん患者に特有の匂い、つまりがん細胞に由来するであろう何らかの物質の正体が分かれば、それを識別する分析装置(センサー)を開発できるはずです。そしてその装置が広く普及すれば、がんの早期発見が容易にできるようになるでしょう。レントゲンや血液検査よりも、自分の息を装置に吹きかけるだけで、がんかどうかが分かるわけですから。
がんが怖れられているのは、死に至る病気だからですが、早期に発見できれば治療できる確率は高まります。早期発見が難しいのは、その人ががんだと判定できる有効なマーカーが見つかっていないからです。世界中でがんマーカーについての研究が莫大な予算を投じて行われています。もし特定できれば、それこそノーベル賞間違いなしでしょう。がん探知犬は、匂いがマーカーになりうる可能性を示してくれました。近い将来、呼気でがんを探知できる分析装置が実用化されて、全国の医療機関に導入されたとしても、面倒だと思ったり、医者嫌いだったり、人間が検査を受けようとしなければ早期発見にはつながりません。ならばどうするか。
一旦装置が完成すれば、小型化が進むでしょう。ICチップひとつの大きさにまで小さくできれば、スマートフォンに組み込んでしまうのはどうでしょうか。電話をすれば、その場で呼気を検査して、がんかどうかが分かるという仕組みです。夢物語かもしれませんが、かつては「匂いでがんが分かるわけがない」と言われた私が、マリーンといっしょにここまでやってくることができました。

医学雑誌「GUT」に掲載された論文

医学雑誌「GUT」に掲載された論文(2011年1月31日付)

マリーンのクローン犬エスパー

マリーンのクローン犬エスパー。マリーンに匹敵する嗅覚を持つ。

がん探知犬に
導かれて

現在、うちの犬舎には5頭のがん探知犬がいて、うち1頭は韓国ソウル大学で誕生したマリーンのクローン犬です。マリーンに匹敵する優れた嗅覚を持ち、この研究を正しい方向に導いてくれる頼もしい存在です。海外から「がん探知犬の訓練方法を教えてほしい」と依頼を受けることもあります。海外に出向いたり、来日したトレーナーに教えたりするのですが、あまり良い成果は出ていないと聞きます。最初にマリーンと出会えたことは、本当に幸運だったと思います。私たちの研究では、肺がんについては物質の特定まで後一歩の段階まで来ています。しかし、これで間違いないと特定するには、まだまだ時間と予算が必要です。肺がんのマーカーの可能性があるAという物質は、他のがんの匂いや健康な人の匂いには含まれていないのか、それを丁寧に調べていかなくてはなりません。
ここでもがん探知犬の嗅覚が頼りであるのは変わりありません。がんマーカーを特定しようとする私たちに対し、犬たちは「こっちだよ、こっちだよ」と教えてくれているような気がします。何か新しいことをやろうという勇気、そして発想力があれば人生何でもできる。神様はできる試練しか与えない。私はそう思います。

diagram 3
匂いの分類・匂いと病気の関係

匂いの分類・匂いと病気の関係の図

弁別可能な匂いの数は約10万、人間の匂いの受容体は300種を超えるとされています。古来、その多様な匂いを分類する方法が試みられてきましたが、いまだ定番はありません。一方、匂いと病気の関係も古くから注目されており、その一部は医療にも応用されるようになりました。