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科学の忘れもの

この世界で起こることすべては、いずれ科学で説明がつき、技術で再現することができる、という考え方があります。
もしそれが本当だとしても、実現できるのは遠い将来のこと。
おそらく科学や技術が進歩するほど、世界の謎は深まるばかりという方が、ありそうな未来です。
すでに科学技術によって解決済みとされているテーマにしても、よくよく見直してみれば、落としものや忘れものだらけ。
しかもそれらは、いちばん大切で、しかも日々の生活のすぐそばにあったりするようです。
たとえば、勘や気配や予感をはじめ、合理的に説明されたように思えても、どこか腑に落ちないものは、決して少なくありません。
思えば現代文明はずいぶんたくさんの忘れものをしてきてしまいました。
しばしの間、立ち止まって、あれこれ思い出してみるときが来ているのかもしれません。
来るべき科学や技術の種は、そんな忘れものの中で、見つけられるのを、いまや遅しと待っているのです。

堀場製作所

Iotの向こう側

エスカレータが百貨店などに設置されはじめた頃、足を踏み出すタイミングが測れずに、立ち往生したり転倒したりする人が、老若男女にかかわらず、かなりの数存在しました。新しい技術には、こうしたことが付き物です。ITでも同様です。高齢者がATMの前でとまどったり、病院の自動支払機の前で途方に暮れている様子もしばしば目にします。高齢者に限らず、新しい技術を前にした失敗は、多くの人が体験しているはず。IoTがさらに発達すれば、そんな厄介事からも解放されるのかもしれません。技術の不備を、技術が補うわけです。しかし、人間がその生活や行動のスタイルを、いつの間にか技術に合わせて変えていたなどということの方が、よほど起こりそうにも思えます。いずれにしても、テクノロジーが、人間の役割をどんどん肩代わりしていくことに、間違いありません。
モノやコト、そして知識でさえ、ITやIoTでコントロールできるようになったとき、人間の側に最後に残されるのは、感情や感覚、あるいは欲望のようなものだけである可能性があります。もちろん機械にも「感覚」することはできます。しかし「感覚」を味わうことはできません。IoTの行き着く先に待っているのは、言葉や道具を発明する前から人間に備わっていた、「感覚」の世界に向き合うことなのかもしれません。実はIoTがスタートを切った現代は、人間が本来の自分自身が何であったのかをあらためて問い直す絶好の機会なのです。それはエスカレータに足を踏み出す前に、自らの力で階段を昇りながら考えてみるテーマでもあります。

ヒトには何が残される?

もともと「動詞」は人間の行為をあらわす言葉。行為が技術になり、そして道具に置き換わって、いつの間にか 「動詞」が「名詞」になりつつあります。現代では、さらに動詞のIT化が進み、ヒトに残されたのは、「欲望」と深くかかわる「食べる」「寝る」「増やす」だけになりつつあります。その3つでさえ、すでに技術ぬきには成立しなくなっているようです。ITあるいはIoTの将来は、ヒトが失いつつある「動詞」をふたたびヒトが取り戻すためにこそ、使われなくてはならないのかもしれません。

人間活動分割 置き換えの歴史

文明の進歩は発明と発見の歴史でもあります。人類は発明と発見によって、多くの便利を手にし、能力を拡張してきました。またその活動を分割・分担し、その一部、あるいは多くの部分を機器や他者に託すことを通じ、効率化を進めてきました。しかしその一方で、道具やシステムで人間の持っていた能力を置き換える ことは、本来備わっていたはずの能力の減退、あるいは消失に繋がります。道具やシステムが失われたとき、ひとりの人間ができることを、 あらためて考えてみる必要があるのかもしれません。

失われゆく能力

動物的「超」能力

直立二足歩行にともなって獲得した「道具」と「火」と「言葉」は、ヒトを他の動物とまったく異なる動物にした。火は金属器等を生み出す一方、「加熱調理」によって、ヒトの体内環境をも大きく変化させた。また言葉によるコミュニケーションは、ヒトが気配や兆しを感じとる能力を減退させるきっかけとなった。

記憶の力

文字の発明は、文明の発展を一気に加速させることになる。「記録」の誕生でもあるが、それはまた記憶の失墜でもある。文字記録として公式に残されない「記憶」はやがてなかったことにされていく。現代では電子機器の日常化で、さらに記憶力は劇的に減退しつつある。

個の力

定住と農耕のスタートは国の起源でもある。とりわけ保存可能な穀物栽培は、備蓄される食糧の多寡により富の遍在を生む。また個人では効率的な生産が難しい米や麦は、共同作業となり、分業システムをつくりだし、多くの機能と力が「国」に託されることになった。そして今「クラウド」が、もうひとつの「国」になりつつある。

移動の力

車輪の発明により、大量の物資を短時間のうちに遠距離まで運ぶことが可能になった。牛馬を利用することにより、その効率はさらにアップする。定住生活が基本となったことと相まって、ヒトが自らの足によって移動する機会が激減。それは古代においては一部の者の特権でもあったが、現代人は、さらに二足歩行そのものを放棄しようとしているのかもしれない。

方向感覚

古代中国のいわゆる「四大発明」は、現代にまで大きな影響を与え続けている。とりわけ羅針盤により、移動中でも方角を確実に把握できるようになった。ただし、星や太陽などによって自身の位置を認識する方向感覚は消失していく。面の方向感覚が線の方向感覚となり、GPSによって我々は自分の位置を「点」でしかとらえられなくなった。

闇の力

家電が生活のあり方を大きく変えてしまったのは言うまでもないが、とりわけ空調と電器照明が、ヒトが本来持っている時間感覚を奪っていった。「夜」の闇が消え、温度や湿度が一定に保たれることがよしとされ、季節感覚が希薄になり、体内時計や自己調節機能が狂い始めた。

手の力

中世に貨幣経済が定着すると、道具が商品となって流通する。その生産者は職人となり、分業がますます進んでいく。自ら工夫しつくり出し、さらには修理していた生活必需品も、貨幣と交換するものになった。手の持っている多様な能力が、忘れられ、やがては貨幣も「もの」から「データ」に置き換えられていく。

無駄の力

機械やシステムによって人間の活動や力が置き換えられることで、本来ならば「自由な」時間が生み出されるはずだったが、そんな時間もまた、機械やシステムで埋め尽くされていく。無駄や閑、非効率や非合理が持っていたはずの豊饒な力が見えにくくなってきた。現代人は、忙しさに飢えている。

病と死の力

身体を機械やシステムとして捉え、その変化を数値で表現するようになると、身体が発するメッセージを当人が自覚できなくなる。また、「病」や「死」は忌避すべきものとされ、それらは隠され、隔離されていく。病や死が見えない世界は、ほかならぬ「生」が見えない世界でもある。

予知の力

近代科学の発達は、予測技術を飛躍的に向上させた。境界条件さえ定められれば、一定の未来も予測可能である。ただし前提となる境界条件を見失うと、たちまち「想定外」の事態が招来する。にもかかわらず想定外をも想定できたはずの直感や予知能力は、科学技術に置き換えられようとしている。

INDEX

SF雑誌『アメージング・ストーリーズ』の表紙では、テクノロジーによって実現された理想郷が描かれ、映画「タイム・マシン 80万年後の世界へ」(1960)では悲観的な未来イメージが描かれている。IoTの扉は、どちらの世界に通じているのだろうか。