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科学の忘れもの

この世界で起こることすべては、いずれ科学で説明がつき、技術で再現することができる、という考え方があります。
もしそれが本当だとしても、実現できるのは遠い将来のこと。
おそらく科学や技術が進歩するほど、世界の謎は深まるばかりという方が、ありそうな未来です。
すでに科学技術によって解決済みとされているテーマにしても、よくよく見直してみれば、落としものや忘れものだらけ。
しかもそれらは、いちばん大切で、しかも日々の生活のすぐそばにあったりするようです。
たとえば、勘や気配や予感をはじめ、合理的に説明されたように思えても、どこか腑に落ちないものは、決して少なくありません。
思えば現代文明はずいぶんたくさんの忘れものをしてきてしまいました。
しばしの間、立ち止まって、あれこれ思い出してみるときが来ているのかもしれません。
来るべき科学や技術の種は、そんな忘れものの中で、見つけられるのを、いまや遅しと待っているのです。

堀場製作所

不便〜「尊敬」って何?

「学ぶ」の語源が「真似る」であったように、学ぶことはまず、真似ることであり、そして盗み取ることでもありました。「教える」ことは「示す」ことです。教えることのできる者は、まず真似したい、盗みたいと思われるほどのものを持っていなくてはなりません。だからこそ、尊敬の念も芽生えるというものです。教育がシステムになることにより、教え教えられる中身は「コンテンツ」になり、「スタイル」や「モード」は二の次になりました。教育者が、コンテンツを伝達するメディアになったわけです。というわけで、教育者はもはや人間である必要はありません。それでも「先生」を真似たいと思うなら、人間がコンピュータになるしかないのです。

●この100年で、世の中は劇的に「便利」になりました。いったん知ってしまった便利は、なかなか手放せないもの。もとの不便には、戻りたくても戻れないのが、人間の性というものでもあります。かくて便利な道具やシステムを手に入れる度に、人間自体がどんどん不便になっていきます。すでにわたしたちは、一人で火を熾すことさえできません。ましてや壊れたスマホを自分で修理することなど、夢のまた夢。

●必要は発明の母、と言いますが、すでにどうしても必要なもの─とくに日常生活においては─は見当りません。それでもオーバースペックの新機能やニューヴァージョンが次々に登場し、身の回りからは、不便の種さえすっかり消えてしまったように見えます。その分、人間そのものはとんでもなく不便になってしまいました。結果として、これからしばらくは、画期的な発明が生まれそうにもありません。せいぜい、あらゆるものがIT化、あるいはIoT化するばかりです。もうかつての世界に後戻りできないならば、せめて新たな不便でも何とか「発明」するしかないのでしょうか。

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