Interview #03粘菌に見る生命の不可思議さ

わずかな時間で、動物から植物へ変化する。
他に例のないユニークな生態を持つ
細胞性粘菌に生命現象の謎が隠されている。

前田 靖男

東北大学名誉教授。1942年生まれ。大阪大学大学院理学研究科生理学専攻修士過程修了。理学博士。1982年に東北大学理学部助教授、1992年に同教授。専門は細胞・発生生物学。著書に『パワフル粘菌』(東北大学出版会)などがある。

細胞性粘菌との出会い

粘菌と言えば、日本が誇る世界的な博物学者・南方熊楠翁を思い浮かべる人も多いでしょう。彼が研究していたのは、粘菌のうち「真正粘菌」と呼ばれる種類で、私が研究しているのは「細胞性粘菌」と呼ばれる種類です。
私が、この細胞性粘菌(以後、粘菌とする)と出会ったのは、大阪大学大学院の修士課程に進学して間もない頃、各研究室を回って、自分の研究テーマを決めようとしていた時です。
当時アメリカから粘菌を持ち帰った先生がいて、たまたま粘菌を目にすることができたのです。私は一目で、その不思議な生態の魅力の虜となってしまい、以来40年以上にわたって、研究を続けることになりました。
南方翁は亡くなる前に、細胞性粘菌の存在を知ることはなかったと思われるのですが、もし出会っていれば、真正粘菌に対してそそいだと同じような情熱をもって、細胞性粘菌の研究を行ったことでしょう。
粘菌は一般にはあまり知られていない生物ですが、そのユニークな生態は「こんな生物がいるのか!」と、常に驚きを与えてくれます。「森の妖精」とも呼ばれる粘菌が、自然の中でたくましく生きている姿を紹介したいと思います。

一夜にして
動物から植物へ

粘菌は、土壌表層に広く分布しているユニークな生物です。成長期のアメーバ状単細胞は、周囲に食物(主にバクテリア)が豊富にある時は、貪欲に取り込みながら細胞分裂によって増殖していきます。やがて食べるものがなくなると(飢餓状態)、粘菌は一転して別の行動を取るようになります。
それまでバラバラに動き、ひたすら食べて増え続けていた粘菌たちは、どんどん一か所に集まりはじめ、多細胞体としてまとまるのです。やがて、10万〜50万個ぐらいの細胞からなる半球状の塊(マウンド)が形成されると、そこから角のような乳状突起が飛び出してきて、やがてナメクジのような姿で移動を開始するのです(これを移動体と呼びます)。移動体は多くの細胞から構成される多細胞体で、全体として見事に統括された形態形成と分化を実行します。

見事な協調動作に感心しますが、その細胞間の情報伝達に大きな役割を果たしているのが、「サイクリックAMP(cAMP)」という物質です。粘菌細胞が飢餓状態になった時にマウンドを作ろうと集合する際に、「ここに集まれ!」というシグナルになっているのもcAMPです。
やがて移動体は動くのを止めて、次なる形態へと変貌を遂げていきます。それが「子実体」と呼ばれるもので、細胞塊から柄がするすると伸び、先端に「胞子塊」がついています。少し前まではナメクジのように動き回っていたのに、今度はあきらかに植物の形に変化していくという驚き。しかも飢餓状態になってから、子実体が形成されるまでの時間は24時間程度なので、まさに「一夜にして動物から植物に変化」するのです。

自らを犠牲にする
利他行動

子実体の胞子塊からは、胞子が飛びだし、それが発芽。アメーバ状の姿に戻り、再び増殖を始めます。子実体の柄の部分はそのまま死んでしまいます。
先に移動体は「多くの細胞から構成される多細胞体」だと説明しました。つまり胞子になって次の世代に生き残れる細胞と、柄になって死んでいく細胞があるわけで、その区別は既に移動体の段階で、はっきりと分かれています。その分かれ目は、飢餓状態に陥った時点で、細胞が細胞周期のどの段階にあるかによります。まったくの偶然で運命が分かれてしまうわけです。自らが生き残れないにも関わらず、移動体の一員として見事な協調動作で動いているのを見ていると、自然の残酷さを感じずにはいられません。最近では、その利他行動を解析するために分子生物学の方面から注目されるようになりました。
また粘菌はモデル生物としても重宝されています。モデル生物とは普遍的な生命現象の研究に用いられる生物のことで、粘菌の他に大腸菌や酵母、動物では線虫、ショウジョウバエ、マウス、植物ではシロイヌナズナなどがあります。
粘菌の発生・分化のメカニズムはシンプルであり、しかも短時間で変化が観察できるという利点があります。ゲノムも解析済みで、遺伝子操作による結果も調べやすく、世界的に注目が集まっています。

生命の不思議さ
への感性

私は長年、粘菌の研究をしていますが、今なお顕微鏡をのぞいているとわくわくしてしまいます。しかし、最近の学生を見ていると、やけに冷めている雰囲気があるのが気になります。不思議なことに出会って驚いたり、何故そうなのかを知りたくてたまらなくなる感性が、研究者には欠かせないはずです。学生たちに「よく対象を見なさい」と言うのも、気を抜いていると大切なことを見逃してしまうからです。今見ている粘菌は病気なのか健康なのかを見分けるくらいでないと…。
愛情ある目にのみ、真実はその姿をあらわすのですから。

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