この世界で起こることすべては、いずれ科学で説明がつき、技術で再現することができる、という考え方があります。
もしそれが本当だとしても、実現できるのは遠い将来のこと。
おそらく科学や技術が進歩するほど、世界の謎は深まるばかりという方が、ありそうな未来です。
すでに科学技術によって解決済みとされているテーマにしても、よくよく見直してみれば、落としものや忘れものだらけ。
しかもそれらは、いちばん大切で、しかも日々の生活のすぐそばにあったりするようです。
たとえば、勘や気配や予感をはじめ、合理的に説明されたように思えても、どこか腑に落ちないものは、決して少なくありません。
思えば現代文明はずいぶんたくさんの忘れものをしてきてしまいました。
しばしの間、立ち止まって、あれこれ思い出してみるときが来ているのかもしれません。
来るべき科学や技術の種は、そんな忘れものの中で、見つけられるのを、いまや遅しと待っているのです。
堀場製作所
埼玉県川口市の医療機器メーカー、株式会社メトランの創業者であるトラン ゴック フックさんは、睡眠時無呼吸症候群(SAS)と診断され、CPAP(持続陽圧呼吸療法)を受けることになりました。CPAPとは、鼻に当てたマスクから空気を送り込んで気道を広げることで、寝ている時に呼吸が止まらないようにするものです。
夜、鼻にマスクをつけて、CPAPを続けていたフックさんですが、昼間の強い眠気に悩まされました。医師に相談しても、「いや、ちゃんと呼吸できていて、無呼吸の状態はゼロに近いですよ」と言われるだけ。フックさんは「先生、どうにもこうにも眠くて仕方ないんですが」と不満を訴えますが、医師は睡眠時に呼吸が止まっていないのだから、ちゃんと眠れているはずと言うばかりでした。
CPAPで使っている機器は信頼できる欧米メーカーの製品です。ではこの眠気は一体何が原因なのか。医師の説明に納得できないフックさんは、自分で呼吸に関する論文を調べ始めました。
フックさんは1968年に南ベトナム(当時)からの留学生として日本にやってきました。日本の大学を卒業した後は医療機器メーカーの研修生となります。
ところが1975年4月にサイゴンが陥落し、フックさんは帰るべき故郷を失ってしまいます。ベトナムからの留学生の多くはアメリカに渡りましたが、フックさんは日本に残ることを決意します。研修生として受け入れてくれていた医療機器メーカーの社員として働き始めます。
10年ほど勤務した後、フックさんは独立を考えるようになり、当時、日本企業が進出していなかった人工呼吸器の開発を決意します。フックさんは呼吸に関する論文や参考文献を読みあさり、知識を深めていきます。
「ある時、大学の先生に質問しに行った時、人工呼吸器の専門家がやってくると勘違いされてしまい、逆に質問されたこともありました」
1984年、フックさんはメトランを設立し、「高頻度振動換気(HFO)方式」の人工呼吸器の開発に取り組みます。一般的な人工呼吸器は陽圧式と呼ばれるもので、患者の肺の中に強制的に空気を送り込む仕組みです。
「人工呼吸器をつけている患者の胸は自然に上下して、確かに普通と同じような呼吸をしているように見えます。でも自然呼吸の仕組みは全く逆で、胸筋が広がって肺がふくらむことで陰圧になり、自然に空気が入ってくるのです。この時の肺には全く負担はかからないのですが、陽圧式の人工呼吸器では肺に大きな負担を強いているのです」
特に問題となるのは肺機能が十分に育たないまま生まれてきた未熟児に使った場合で、子どもの命を救うことができても、肺胞を痛め、身体に障害が残ることがありました。一方、メトランが開発しようとするHFO方式は高頻度の気圧振動を発生させることで、低圧力で酸素を肺に届けることができます。
「自然呼吸とは全く異なるので、医師からは『こんなのは役に立たない』と言われました。でも、HFO方式なら未熟児の未成熟な肺胞を傷つけることもないのです。そもそも人工呼吸器なのだから、自然呼吸と違っていてもかまわないはず」
メトランはHFO方式の人工呼吸器「ハミングバード」の開発に成功。これをアメリカ国立衛生研究所(NIH)が主催した「高頻度人工呼吸器コンペティション」に出品したところ、欧米メーカーの製品を退けて、最優秀賞を獲得します。
そして現在、メトランの人工呼吸器は日本国内の新生児医療の現場に広く普及しています。
さてSASの治療中に、強い眠気に悩まされていたフックさんは、睡眠時の体温と脳の関係について書かれた論文を見つけます。
「眠っている時に、体の深部体温が0.6〜0.7度ほど下がらないと脳が充分休めないらしいのです。CPAP機器は鼻から空気を送り込む際に喉の乾燥を防ぐために、ヒーターで暖めた空気を常に送り込んでいます。一晩中同じ温度と湿度を保つようになっているので、深部体温が下がらず、結果として脳がしっかり休めていなかったのでしょう」
お風呂に入ると末梢神経まで血流が行き渡ります。風呂から出てしばらくすると、末梢神経から熱エネルギーが放出されて体温が下がるので、ぐっすり眠れます。この説明には医師も納得してくれたそうです。SASの治療のために、無呼吸状態を解消さえすればいいという考えは間違ってはいませんが、睡眠の質にまで配慮が及んでいませんでした。そこでフックさんは自社でSASの治療機器「JPAP」を開発します。
「快適な睡眠は人間にとって重要な要素です。JPAPの開発では私自身が何度も試して、納得できる製品を作り上げました、今はJPAPを使って、快適に眠れています」
人工呼吸器もCPAPも一見、患者の呼吸をサポートしているように思えます。しかし実際は思わぬところで患者に負担を強いていることがあります。そこに気づいて、本当に苦しんでいる人のために何ができるかを考えるのが大切とフックさんは言います。
「JPAPを使ってみた社員のひとりが『妻が一番喜んでいます』と言ってきました。なぜ、と聞くと『旦那がイビキをかかなくなって、よく眠れるから』だそうです」