05 機械の不思議電気羊の夢を見る夜。

機械の気持ちがわからなくてもおかしくない。
人間だって自分が何を考えているのか、わかってないのだから。

◉ 機械には植物や動物のようには「不思議」は存在しない。なぜなら機械は、ほかならぬ私たち人間が「いち」からつくりあげたものだからだ……本当にそうでしょうか。

◉ 自然と人工の境界はあいまいです。「自然豊かな田園風景」は、あくまでも人が手塩にかけて管理するからこその「美しい自然」ですし、四季のうつろいやあるがままの自然を尊ぶといわれる「茶の湯」に代表される日本文化でも、自然は自然らしさを保つために、徹底して人の手が加えられています。一方、人もまた自然の一部であるとするなら、その人間が自然の素材を使ってつくり出す一切の人工物もまた、自然の延長ということにもなります。以上、少々乱暴な理屈かもしれませんが、それならば品種改良されマンションのリビングルームに置かれた観葉植物たちは、自然なのでしょうか、それとも人工なのでしょうか。

◉ そんな風に考えてみると、人間がつくったからといって、機械には何の不思議もないと、簡単にいってすませるわけにもいきそうにありません。たとえば最近、ある書物で紹介されて有名になったエピソードに、「飛行機はなぜ飛ぶのか」という謎があります。飛行機だけではなく多くの「機械」のそこここに、「なぜ」を問いはじめると説明不能になる領域が存在しています。私たちは、「なぜ」を解きあかすより前に、経験的に知っている「そうなること」をもとに機械をつくり、操っているのです。実は「わかっていること」だけでつくりあげるだけでは不安であるからこそ、シミュレーションや試験によって「そうなること」を確認することになります。それに、もともと科学や技術は「なぜ」を解明するものではなく、あくまでも「どのように」を知るためのものでした。

◉ さらに現代においては、機械は人がつくったものだとは、なかなか言い切れません。私たちが無人島に漂着したとき、そこがいくら天然資源に恵まれていたとしても、一本の鉄釘をつくることさえ覚束ないはずです。火をおこすことだって大仕事になるかもしれません。ましていくらそれがもともと「人間がつくったもの」だからといって、テレビやパソコンなどは、百年たってもつくれはしません。都市のなかで私たちが普通に接しているいる「文明の利器」なるものは、実は一人の人間として向かい合ったとき、「不思議」と「謎」と「驚異」に満ちていることに気づくはずです。

◉ 20世紀は発明の世紀だったといわれます。とりわけ後半50年間に開発された機械=商品は、私たちの日常生活を劇的に変えました。しかし、あらためて何が起こったのかを点検してみると、画期的な新発明は数えるほどです。そこで起きていたのは、コンパクト化とオートマティック化でした。象徴的には電話がケータイになりました。しかし根本的な機能に変化はありません。そしてそのコンパクト化とオートマティック化は、機械が機械をつくることによってもたらされたのです。すでに、機械は人間がつくったものでさえなくなっていたのです。人間にとって、現代社会とは新しい不思議に満ちた第二の自然であるといってもいいのかもしれません。

◉ 同じように植物を育てても、元気よく生長し美しい花や実をつけることもあれば、すぐに枯れてしまうこともあります。いつもうまくいく人もいれば、何度やっても失敗する人もいます。前者は「緑の手をもつ人」と呼ばれてきました。それは、植物とのコミュニケーションにたけているからだとする仮説が囁かれてもいます。さて、オフィスには頻繁にパソコンをフリーズさせる人がいます。なぜか電球がすぐに切れてしまうという主婦の話もよく耳にします。ことさら乱暴に扱っているわけでもないのに、その人が触れると機械が壊れるというエピソードも、さして珍しくもありません。有名なところでは、物理学者ウォルフガング・パウリがいるところでは、実験機器が正常に働かないという「伝説」も残されています。もちろん逆に、機械との相性のよい人もいるのですが、そんな人は「銀色の手」をもっているのかもしれません。

◉ パソコンやケータイが感覚や意識をもっているという徴候は、いまのところまだありません。しかし人間と機械が、入出力を超えた広義のコミュニケーションをとりはじめている可能性も否定できません。人体も微細ながら電場や磁場を形成しているのだから、機械のそれとの「共感」や相互作用が起こっていたとしても、いっこうにおかしくはないでしょう。

◉ これまで「機械」は人間がつくるものであり、その働きや性質は自明のものであるとされてきましたが、すでに機械は人間がみずからの手でつくり出すものでも、自明の存在でもなくなりつつあります。植物学や動物学、あるいは気象学や天文学のように、機械を第二の自然としてとらえる新たな「機械学」が、そろそろ必要になっているのかもしれません。もしかしたら、家庭の電化製品たちも、F・K・ディックのアンドロイドのように「電気羊の夢」を見はじめているのですから。