◉ 霧が雫になり、川になり海になる……
その反対に水を細かく分割していくといったい何にたどりつくのだろうか、黄金や鉄は、炎や風は、そしてオレンジや人間は……「物質」をめぐってのそんな問いかけが原子論(アトミズム)のスタートです。水はどこまで小さくしても水なのか、それとも水と炎は同じ要素でできているのか、などと考えはじめることになります。おそらくレウキッポスやデモクリトスのようなギリシアの哲人たちも、同じような謎にとり組んで四苦八苦したのでしょう。
◉ 世界を数種類の要素でシンプルに記述することは、古代哲学から現代科学にいたるまで、人類にとってかわらぬ夢であり続けました。シンプルでエレガントであることは、物理法則の真実らしさのひとつの目安でさえあります。実際、ギリシアの自然「哲学」はもちろんのこと、近世以降の自然の科学=古典物理学も、エレガントさの追求にはひとまず成功をおさめてきたようにみえます。しかしデモクリトスたちの「物質は不連続であり、真空と不可分割体(アトム)からなる」とする原子論の伝統は、ドルトンによって復活を果たしたものの、19世紀末にはあっという間にシンプルでもエレガントでもない、不可解な様相を呈しはじめます。だいいち当の原子が、実体としてリアリティを帯びるとともに、内部構造をもっていることが明らかにされ、もはやアトム(不可分割体)ではなくなってしまいました。原子は、電子をはじめとする素粒子によって構成されますが、さらにその素粒子も種類が増え続け、究極粒子の資格を失って、20世紀後半にはクォークの登場とあいなります。しかも素粒子にしてからが、物質粒子というより空間(場)の「濃い」領域であると解釈する方が「エレガント」であるようで、いつしか物質の構成単位を求める旅は、目的地を見失ってしまったかのようにもみえます。
◉ そもそも、ドルトンからクォークにいたる現代原子論の展開プロセスをたどりなおしてみると、あたかも科学者の自然に対する理解力が次々にためされ続けたかのようにも感じられます。そこは、光も物質も波であるとともに粒子であり、エネルギーは不連続の値をとり、「光子」は同時にふたつの穴をくぐりぬけ、素粒子のあるものは時間さえ逆行してみせる、というまさに不思議の国でもあったのです。しかも古代ギリシアこのかた、「原子」の定義にかかわる個性の問題にも依然として決着はついていません。すなわち、このコップを構成しているクォークとあの猫を構成しているクォークは区別できるか、という問題です。もちろん同種のクォークなら区別できないとするのが原子論の本来なのですが、そうそうことはシンプルではないところが、歯がゆくもあり面白くもあるところなのです。
◉ さて、鏡のなかの自分と鏡のこちらの自分は区別できるでしょうか。当然、左右が入れかわっているから、とりあえず区別はできそうです。ならば、なぜ左右は入れかわるのに、上下は入れかわらないのでしょう。……いささか乱暴ですが、答えは左右は入れかわっていないというものです。あくまで「私」にとって鏡のなかの右手は私の右側に、左手は左側にあるのですから。ところで、この左と右、つまり対称性は物理学のもうひとつの大テーマでもあります。たとえば遠方の「異星人」と上下・前後・左右のそれぞれについての定義を共有しようとするなら、上下は引力によって、前後は運動のかぎり、左右を簡単に定義する方法はありません。同じ地球上にいるなら、磁極と太陽の運行によって左右の概念は共有することができますが、相手の星で太陽(恒星)が東から出るか西から出るか、あるいはその星の磁場が事前にわかっていないかぎり、それも不可能なのです。だいいち磁針の北と南は一義的に区別することはできません。つまり私たちと相手との間で、共通に観察できる非対称な対象がないかぎり、左右の定義はできないことになります。
◉ 鏡に映った自分と鏡の前の自分をぴったり重ね合わせることはできません。それは人間の体が左右非対称だからですが、物理現象は電磁気にまつわる一見非対称とみえる現象でも、上下を入れ替えると、鏡像と実像はぴったり重なる対称性をもっています。そこが「異星人」と左右についてコミュニケーションがはかれない理由です。アリスが訪れた国のようには、鏡の国には不思議はないということでもあります。もちろん一般に非対称の現象は起こりますが、それと鏡像の現象も同様に起こることであり、どちらになるかは、あくまでも偶然なのです……と思われていました。
◉ 1956年、中国出身の物理学者、ヤンとリーが、ある種の現象において自然が非対称であることを指摘します。続いてコロンビア大学のウーが、コバルト60の原子核のベータ崩壊に際して、一方の極から電子が放出されやすいことを発見しました。すなわちこれでようやく、「異星人」との間でも右左がはっきりすることになったわけです。しかしもしかすると、いつかこの非対称性も覆されるかもしれません。まあ、「異星人」と連絡をとることが先決かもしれませんが。