◉ サイエンスにも流行があります。1970年代までは量子力学と天文学が、哲学者や芸術家たちの関心をひきつけていました。それは素粒子の不可解な振る舞いや、ビッグバンやブラックホールなど、想像力を刺激してくれるさまざまな「アイドル」たちの存在によるところも大きかったようです。その後まもなく流行の先端には生命科学が躍り出ます。主役となったのはまずは分子生物学、そして進化論でした。いずれも背景には、発生やDNAをめぐる研究の進展がありました。生物学や進化論をめぐる言葉やコンセプトは、対象が具体的であってイメージしやすいこともあり、いまもさまざまな場面でさかんに使われています。「進化」という言葉は、広告のキャッチコピーの常套句にさえなってしまいました。そして男性の浮気行動から文明の興亡まで、進化や遺伝子によって説明されることによって、何となく「理由」が理解できたような気にもなってしまいます。
◉ しかし、そこには多くの誤解や曲解が含まれています。まずほとんどの場合、「進化」が「進歩」であり、進化をとげたことが優れたことであるかのように表現されていますが、実はいわゆる「退化」も進化のうち。進化はあくまでも適応、あるいは適応へのプロセスであって、進歩や優劣などの文化的価値観と、直接に結びつくものではありません。
◉ そして、遺伝子やDNAが生物の形や行動を一義的に決定しているという勇み足も随所にみることができます。たしかに遺伝子は、設計図やトリガーや調節機構の一部ではあるにしても、細胞内(あるいは外)環境の果たす役割がきわめて大きいことがわかっています。とりわけ人間の行動や思考は、社会制度や条件によって大きく左右されるものであり、単純に遺伝子だけで説明しようとしても、それは強引にすぎるというもの。増して遺伝子やミトコンドリアが「意図」や「意志」をもっているかのように語られるにいたっては、笑い話にもなりません。もっとも「遺伝子の意志」については、生物学者リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」というメタファーにも、責任の一端があるようです。
◉ さらに進化や発生や遺伝についての「お話」は、多くの場合、原因と結果と目的が混乱しています。男の浮気は種族繁栄にための適応戦略にもとづいてプログラムされているなどというものが、その代表です。浮気や恋愛に遺伝子や進化を持ち出すのは姑息というものです。そこまで極端ではないにしろ、鳥の羽根は空を飛ぶために進化した、というような言い方もよく耳にするところですが、つまるところ現実の生物形や行動はあくまでも進化の結果であって、目的ではありません。
◉ たしかにダーウィン以来、進化論は多くの修正を加えながらも、生物をめぐる多くの不思議を解明してきました。しかしなお、説明不能なことは、それこそ山のように残されています。まったく別の系統の生物によく似た形や行動があらわれること、他の生物や環境に驚くほどよく似た形態、あたかもひとつの生命体のようにふるまう複数種の生物たち……など枚挙にいとまはありません。そんななかで、それこそダーウィン以来、多くの進化論者の頭を悩ませてきたのが、蟻と孔雀の問題です。
◉ 蟻の問題とは、なぜ個体の利益にならない行動、すなわち「利他行動」が進化したのかということ。孔雀の問題は、自己の生存を脅かすような一見無駄な形態を進化させた「性選択」をめぐるものです。
◉ 利他行動は、自分と同じ遺伝子をより効率的に残すために、自らが犠牲となって同族を救うというドーキンスによる仮説が受け入れられています。一方、孔雀については、雄の形質に対する雌の好みによるものであり、派手な羽根をもつ雄の遺伝子と派手な羽根を好む雌の遺伝子が互いを選択するために、派手な形質が集団のなかに広がったというランナウェイ説などが提案されています。
◉ 実はどちらの仮説も、ひとまず納得できるようでいて、よく考えると釈然としないものがのこります。どちらもあくまでも結果論であって、当初よりそのようなシステムや原理が働いていたわけではないのですから。つまり原因を説明するものではなく、あくまでもたまたまそうなったということ以上ではないようにさえ、思えてきます。生物の進化プロセスにおいて「偶然」を重視するスティーヴン・J・グールドのような学者もいます。
◉ 生命の歴史は、必ずしも優れた生存システムを進化させてきたのではなく、偶然が介在することにより、多様な不思議を生み出してきたのかもしれません。もしも適応による種族の繁栄ということを、進化が果たした第一の成果だとするなら、その数においても量においても、地球上でもっとも進化した生物は、バクテリア一族ということになるのですから。